【武生国際音楽祭2026レポート⑪】

本年度の武生国際作曲ワークショップのアシスタントの作曲家・金井勇さんに武生国際音楽祭のレポートを頂きましたので、掲載いたします。

武生国際音楽祭最終日の朝は、「モーニング名曲コンサート」。珠玉の小品が卓越した奏者たちによって次々と披露され、最終日の朝にふさわしい、清々しく豊かな音楽のひとときとなった。

・モーツァルトの歌劇《魔笛》より「夜の女王のアリア」は、オーボエ二重奏による編曲版で演奏された。原曲における声楽の超絶技巧的な旋律をオーボエ1が担い、それを支える内声的な動きや伴奏的要素をオーボエ2が受け持つことで、声楽と伴奏という原曲の関係が、2本のオーボエによる緊密な対話へと置き換えられている。 高度な技巧を要求される演奏性の高い編曲で、山田涼子と江波戸大樹が息の合ったアンサンブルを披露した。

・サン=サーンスの《ロマンス ヘ長調》は、ホルンとピアノによる叙情的な小品。柔らかく温かなホルンの音色に、豊かな歌ごころが感じられる。山本純子がピアノで静かにハーモニーを整えるなか、西川優弥のホルンは滑らかな息遣いで旋律を紡いでいく。繊細で親密な音楽のなかにも、ホルンという楽器が本来持つ凛とした風格がほのかに滲み作品に豊かな陰影を与えていた。

・プーランクの《オーボエ・ソナタ》は、「エレジー(哀歌)」「スケルツォ」「デプロラシオン(悼辞)」の3つの楽章からなる。輪郭の鮮やかな旋律に複雑な色合いを持つ和声が重なり、洗練されたフランス的な感性と深い思索性が織り込まれた作品である。穏やかな哀感からふとした瞬間に覗く鋭いユーモアまで、移ろう表情のなかにプーランク独特の多面的な表情が浮かび上がる。山田涼子の端正で豊かな表情を持つオーボエが旋律を鮮やかに描き、伊藤恵の繊細かつ確かなピアノがその響きを支え、二つの楽器が緊密に呼応する演奏となった。

・ヨアヒム・アンデルセンの《孤独》は、フルーティストとしても活躍した19世紀デンマークの作曲家による、フルートとピアノのための小品。マリオ・カーロリのフルートは、息の長い歌うような旋律で、作品に静かな哀感と深い余韻をもたらす。大宅さおりのピアノは抑制の効いた響きでそっと寄り添い、二人の演奏からは、心の内に静かに沈み込んでいくような孤独の気配が漂っていた。

・マスネの《タイスの瞑想曲》は、もともとオペラ《タイス》第2幕に置かれた間奏曲。享楽に身を委ねてきたタイスが、神への帰依を決意するまでの内面の葛藤と、そこに訪れる精神的な覚醒を描く。静けさを湛えた音楽は次第に熱を帯び、やがて大きな高揚へと至る。揺れ動く心が新たな境地へと向かっていく魂の変容を思わせる。清水伶香の艶やかで情感豊かなヴァイオリンと、伊藤恵の繊細な陰影を描くピアノによって、静かな祈りから内面の高まりへと至る音楽のドラマが丁寧に描き出された。

・続いて吉見友貴がドビュッシーのピアノ作品から2曲を独奏した。 まずは《ベルガマスク組曲》より第3曲「月の光」。ドビュッシーの作品のなかでも最も広く知られた一曲である。吉見のピアノは、美しいアルペジオと繊細な和音を響かせながら、絶妙な緩急によって音楽に揺らぎを与え、聴く者を幻想的で神秘的な世界へと誘った。 続いて《前奏曲集 第2集》より「花火」。活気に満ちた軽やかな音の動きが、夜空に次々と現れる光のように交差し、やがて音楽は密度を増していく。色彩豊かなハーモニーが炸裂するクライマックスは、まるで現代音楽を思わせるほど鮮烈である。吉見は、きらめく音の一つひとつを鮮やかに描き分けながら、音楽の高揚を力強く、かつ軽やかに駆け抜けた。

最後を飾ったのはショーソンの《詩曲》。この作品は、ロシアの作家ツルゲーネフがルネサンス期のイタリアを舞台に描いた小説『勝ち誇れる愛の歌』にインスピレーションを得て作曲されたもの。神秘的な雰囲気のなかから情熱が燃え上がり、やがて音楽は静かな、内省的な表情へと移ろっていく。哀愁を帯びながらも力強く、深い熱情を秘めた音楽の魅力がそこにはある。外村理紗のヴァイオリンが繊細で神秘的な響きから燃え立つような情熱まで音楽の表情を自在に描き分け、吉見友貴のピアノが豊かな色彩と確かな推進力でそれを支えた。二人の緊密なアンサンブルによって、神秘、哀愁、情熱が交錯する《詩曲》の世界が鮮やかに描き出された。

【武生国際音楽祭2026レポート⑩】

本年度の武生国際作曲ワークショップのアシスタントの作曲家・神山奈々さんに武生国際音楽祭のレポートを頂きましたので、掲載いたします。

9月4日(金)メインコンサートは、「細川俊夫と仲間たち」。前半は、フリスティナ・スザクの作品「富士の風」から始まりました。鈴木俊哉のリコーダー、田嶋直士の尺八のデュオには有馬純寿のエレクトロニクスが効果的に入り拡張された微細な音響を聴くことが出来ました。続く坂田直樹の作品、「風から息を盗む」はフルートのマリオ・カーロリのヴィルトゥオジティを生かした書法が際立ちます。スリリングな楽想の中に弱奏の音色の素晴らしさを楽しむことが出来ました。馬場法子の「Bestiarium Musicale IV」は、鳥にまつわる3つの小品。マリオ・カーロリとチェロの上村文乃による演奏で洗練された遊び心を感じました。フランチェスコ・フィリデイの「すべての身振りが終わったとき」では、普段聴くことのないような音が各奏者の楽器や、楽器以外に用意された発音装置から聴かれます。フルートの上野由恵、クラリネットの上田希、ホルンの西川優弥、打楽器の葛西友子、ヴァイオリンの辺見康孝、チェロの柴田花音、指揮は大井駿による演奏でした。サウンドは斬新ですが重厚な内容を持つ魅力的な作品はやがて古典になってゆくことでしょう。

後半は、細川俊夫の歌曲とピアノ四重奏。「3つの天使の歌」ではソプラノは天使として、またはシャーマンとしての役割を担います。ソプラノのイルゼ・エーレンスとハープの吉野直子による演奏は日本的な時間の流れを感じさせる非常に美しいものでした。ピアノ四重奏のための「レテ(忘却)の水」は、ヴァイオリンの毛利文香、ビオラの山本周、チェロの上村、ピアノの伊藤恵による演奏。始まりも終わりもない静かな音の河を遠くから見つめているような聴覚体験。豊かな響きが会場を包み込みました。

【武生国際音楽祭2026レポート⑨】

本年度の武生国際作曲ワークショップのアシスタントの作曲家・我妻英さんに武生国際音楽祭のレポートを頂きましたので、掲載いたします。

 武生国際音楽祭のプログラムの際立った特色のひとつは、現代の音楽を特集する「新しい地平コンサート」と題する週末の3公演にもあるだろう。ここでは、音楽祭の期間中同時に開催されている作曲ワークショップ講師陣の作品を含め、最先端の音楽シーンに集中的にかつ優れた演奏で触れることができる。国内でも有数の貴重な機会として遠方から武生に足を運ぶリスナーも少なくなく、その数も年々増加していると聞く。

 9月4日(金)の「新しい地平コンサートⅠ」は、ユン・イサン《シャオ・ヤン・イン》で幕を開けた。創設当初から参加を続けた才能の早逝が惜しまれる津堅泰久《Rufe》に今年の若手招待作曲家の一人渡部瑞基《Rosalia》の世界初演が続き、作曲ワークショップの歴史と発展とにふと想いを馳せる。次いで、大宅さおりの凛として美しいピアノが奏でる我妻英《星わたる線》、鈴木俊哉の超絶技巧が会場の空気を圧倒した神山奈々《身体は、太陽の器》、マリオ・カーロリ、大石将紀、大宅の三者が緊迫感溢れる対話を繰り広げる金井勇《関係項クロッシング》と、アシスタント作曲家陣の新作が披露された。

 翌5日(土)「新しい地平コンサートⅡ」の開始を告げたのは、作曲ワークショップの通訳としても尽力を賜った森紀明の新作《⁂》。サクソフォニストで即興演奏家の森ならではの挑戦的な内容で、大石将紀と有馬純寿(エレクトロニクス)が文字通り新しい地平を拓く。デュサパンの《IF》は、作曲者の求める「獰猛かつ陽気なエネルギー」を十二分に漲らせた上田希のクラリネットが圧巻の演奏。三浦則子の新作《瓦礫の上を星は流れる》は、美しく散りばめられたピアノの音響が祈りの空間を漂流する。今年のもう一人の若手招待作曲家浦野真珠《Opilio Ⅱ》の世界初演も、前日の渡部と並んで瑞々しい才気を印象付けた。今年100歳を迎えた現在も旺盛な創作を続けるベッツィ・ジョラスの《エピソード第4番》は、大石のサクソフォンの卓越した演奏が光る。日仏を拠点に国際的に活躍する坂田直樹《Oval Air》では、上野由恵、鈴木俊哉、田嶋直士による古今東西のエア・リード三重奏が独特の音世界を提示。そして、様々な奏法による多彩な音色と明瞭な音楽的フィギュアとの意外な出会いが新鮮な感動をもたらす馬場法子《Non Canonic Variations》で締められた。

 その興奮が冷めやらぬうち、ほどなくして「新しい地平コンサートⅢ」が山本純子の弾くパニセロ《Japanese Pictures》で始まる。複雑な書法を辺見康孝が巧みに描き出すポッペの《Haare》。サンチェス=ベルドゥ《Deploratio Ⅰ》では、水野優也のチェロが作品の内包する哀悼を深遠に表現。前日の《すべての身振りが終わったとき》が鮮烈な印象を成した今年のメイン講師フィリデイの《Una Rosa》では、上村文乃のチェロと大井駿のピアノが神秘的な演奏を展開した。大石と葛西による息の合ったシェンクの《Scratch》。トリを飾ったのは、山本純子のピアノと有馬純寿のエレクトロニクスによるジョドロフスキの《Série Rouge》。微分音的な絡み合いからパンチの効いたベースまで、電子音響との協演ならではの世界に客席も大いに沸き、3公演を通して同時代の音楽の魅力と喜びを会場の聴衆と共有した。

 最後に、私は今年も引き続きこの2日間のリハーサル・スケジュールを担当し、舞台裏に立ち会った。毎年痛感することだが、特殊な楽器配置や複雑な舞台転換を必要とする現代の作品が並ぶこうしたプログラムではとりわけ、舞台スタッフの方々の力なくして演奏会は実現しない。最上の音楽を届けるための彼らの細やかな心配りとスムーズな進行には、毎回感銘を受け、学びがある。照明、音響、調律、舞台設営と転換。それらに携わるスタッフもまた、この武生国際音楽祭に於ける素晴らしい音楽の「共演者」である。改めて感謝の念を表したい。

(我妻 英)

【武生国際音楽祭2026レポート⑧】

本年度の武生国際作曲ワークショップのアシスタントの作曲家・我妻英さんに武生国際音楽祭のレポートを頂きましたので、掲載いたします。

 この日の作曲ワークショップは、今年のサントリーホールサマーフェスティバル2026で管弦楽曲が世界初演されたばかりのセルビアの若き才能、フリスティナ・スザクの「自作について、そして音をめぐる思索」と題された講義で始まった。現代アートとの出会いから、マリーナ・アブラモヴィッチらに刺激された自身のパフォーマンスを最初に紹介。一貫して身体性を重んじあらゆる制約からの解放を目指す彼女の創作思想の原点を垣間見た。
 講義内では、人間の認知や感覚の拡張を問うた弦楽四重奏とライヴ・エレクトロニクスの大作《NAMO Ⅱ》(2024)の一部やインスタレーションなど、いくつかの作品を実演と同様に暗い空間で体験。また、2人の女声とアンサンブルのための《ANIMA Ⅱ》(2023)は、私自身昨年10月国立音楽大学での日本初演に接したが、笑いとも泣き叫びともつかぬ声が日常と非日常の境界を無効化し、意識を根源にまで遡行させてゆく凄絶な表現に戦慄を覚えた。
 スザクは講義内で何度か自身の個人的な感覚や記憶に言及し、「直感」の重要性を説いた。彼女の音楽やパフォーマンスが持つ強度は、何よりも彼女自身の潜在的な感覚と記憶への真摯な対峙が生み出していよう。その身を切るような創作は、意識の極限的な研ぎ澄ましを要することも想像に難くない。そうした彼女の音楽は、聴き手にもまた各々の感覚と記憶を通じて自身の内面と対峙することを迫る。言わば、聴き手の「直感」を引き出す力が作品の強度に結び付く。人間の意識の根源に対して深い洞察をもって直截的なアプローチを行うスザクの音楽は、受講生たちにとり非常に刺激的で示唆に富むものとなったはずである。

 続いて、新作をはじめ現代作品の演奏経験が豊富な葛西友子による打楽器のレクチャー。はじめに葛西は、楽譜は作曲家と演奏家が互いのアイデアを持ち寄り理想に近付いていくための対話の出発点であるという考えを述べた。
マレット(撥)や楽器の個体差の違い、とりわけ鍵盤打楽器はメーカーによって持ち味や特色が(作曲家の想像以上に)異なる、と説明しつつ、そうした楽器のハード面が全てではない、練習では単にマレットを硬く/柔らかくといった要求ではなくイメージする素材やニュアンスなどの目的を具体的に示してほしい、目的が共有されれば演奏家は己の経験と技術を活かして幅広い選択肢から応えることができる、とアドバイス。
さらに、これまでに経験して興味深かった作曲家のアイデア、自作のマテリアル(既存の素材で効果が得られない場合は日用品などをフル活用、その驚くべきクオリティ)を紹介。作曲家の求める正確な音程と音色に応えるべく、おりん(仏具の小さな鐘)は50個余り、ワイングラス(水を入れてふちを擦る)に至っては80個余り(!)を持ち揃えると述べて、受講生一同の驚きと感嘆を誘った。演奏家の観点から、発音の準備や余韻の処理を計算した書法、理想的な記譜法とそうでない記譜法などについて、現場に於ける様々なエピソードも交えて提言したが、「理想を求めて努力と工夫を重ねる、出来ないとは言いたくない」との言葉には、そのプロフェッショナリズムへの敬意と共に、作曲家側のそれも問われよう。
 最後に、打楽器奏者は様々なアイデアを持っている、私達は作曲家と共に理想を実現するパートナーなので沢山相談してほしい、と葛西。音楽は、作曲家と演奏家と聴き手の三者の対話で世界が無限に広がりゆく芸術。この場から魅力的な新しい打楽器作品が豊かに実る未来を期待させる、極めて充実したレクチャーとなった。

ここからは、今年のメイン講師でいま最も国際的な活躍を見せる作曲家フランチェスコ・フィリデイの《すべての身振りが終わったとき Finito ogni gesto》(2010) 公開リハーサル。演奏は、大井駿の指揮する、上野由恵(Flute)、上田希(Clarinet)、西川優弥(Horn)、葛西友子(Percussion)、辺見康孝(Violin)、柴田花音(Cello)という気鋭のメンバーで、翌日9月4日(金)「細川俊夫と仲間たち」の演奏会で本番を迎える。
 練習を開始する前にフィリデイ自身が語ったところによれば、この作品はチェロ協奏曲《すべての愛の身振り Ogni gesto d’amore》(2009)と対を成す、戦後イタリアの実験文学を主導した詩人エドゥアルド・サングィネッティの一節「すべての愛の身振りが終わったとき Quando è finito ogni gesto d’amore」に触発されたもので、愛と死を主題としている(なお、サングィネッティは本作品の初演の数日後に急逝してしまった)。
音楽は、冒頭から終結に至るまでセクションごとに下降する半音階を軸とし、アーチ状の起伏を成す。鼓動のように脈打つ大太鼓の最弱奏、幽かな笛の音、密やかな息遣い、壊れたオルゴール、譜めくりのノイズが亡霊のように浮遊する静寂で始まり、クライマックスでは足踏みと共に割られる風船の破裂音や荒ぶる楽器群による驚くべき獰猛さに達したのち、再び沈黙へと回帰する。すべてが消え去ったあと、風だけが譜めくりの音と共に残される。
この極めて繊細かつ大胆に形作られた音楽について、フィリデイは自らの書法と同様に緻密なイメージと共に自身の理想を演奏家たちに伝達してゆく。即座に反応するメンバー。その凄まじい集中力は、その場に立ち会う私達にも息をつかせぬ緊張感を伴って伝わった。きめ細やかなニュアンスを生命とするこの音楽が、作品に関わる全員の献身的取り組みをもって具現化されてゆく過程は、改めて作曲も演奏も人間の営みであることを再確認させ、受講生を含めた全員の記憶に深く刻まれる時間となっただろう。

(我妻 英)

【武生国際音楽祭2026レポート⑦】

本年度の武生国際作曲ワークショップのアシスタントの作曲家・我妻英さんに武生国際音楽祭のレポートを頂きましたので、掲載いたします。

 「エスプリ esprit」という仏語が持つニュアンスは、本質的に他の言語に移し難いものと思われるが、敢えて辞書的な定義を試みれば「精髄のはたらきとその気配」や「機知に富む洒脱なセンス」とでもなるのだろうか。このエスプリこそ、近代フランス音楽を他に類なき魅力ある存在としている所以だ。「フランス器楽曲と歌曲のエスプリ」と銘打たれた当夜の演奏会は、まさにそのエスプリを存分に味わう名曲ア・ラ・カルトという趣だった。

 演奏会はラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》で幕を開けた。彼の作品中指折りの人気を誇るが、意味ありげに反し単に言葉の響きの美しさ由来に過ぎない曲名、作曲者自身「個性に欠ける」と冷淡ながらも内心では愛着があったか後年自ら管弦楽に編曲、一説には失語症と記憶障害に陥った最晩年に「この美しい音楽は誰の作曲か」と訊ねたとも伝わる。そんな様々なアンビヴァレンスを纏う本作品が愛されている事実は、洗練の極致に破綻や退廃を宿す職人、皮肉屋にして子供のような純真無垢さも持ち合わせたラヴェルその人にどこか相応しくも感じる。吉野直子の清冽なハープに乗せてマリオ・カーロリの吹く美しく哀しいフルートは、聴衆を近代フランスの妙なる音世界へとたちまち誘っていった。

 ヴェルレーヌの詩によるドビュッシーの初期歌曲集《艶なる宴 第1集》は、森の静寂に身を寄せ合う恋人たちの憩いと不安を描く「密やかに」、華やかな仮面と衣装を纏う踊りに潜める空虚な悲しみを歌った「月の光」、軽快なスキャットが人形劇の滑稽味を印象付ける「操り人形」の3曲からなり、どの曲も幻想的世界の中にそこはかとなく陰が差す。

 続いて、ショーソンの歌曲3選。ショーソンは、ワーグナーに傾倒しパリ音楽院で堅牢な書法をフランクに学ぶ一方で、サティやドビュッシーといった当時のセンセーショナルな音楽性をも支持する寛容さを持ち、44歳での事故死による早逝が惜しまれた存在だった。甘美な思い出が破局の痛みを一層耐え難いものにする「過ぎにし恋」(《4つの歌曲 Op. 8》)、愛の只中での死に憧れる想いを歌った「蜂雀(ハチドリ)」と「蝶々」(『7つの歌曲 Op. 2』)。

 再びドビュッシーの歌曲。波は海へ、我々は墓場へいつか去る、若き日の幸福を味わえと諭す「美しい夕暮れ」、爪弾く響きがきりりとした叙情を醸す「マンドリン」、僅か10代のドビュッシーの感性が鋭く光る「星の輝く夜」。そして白眉はブルジェの甘美な詩を陶然と歌い上げる珠玉の名品「ロマンス」。

イルゼ・エーレンスの独唱と北村朋幹のピアノは、それぞれの作品の光と影とが織り成す綾を繊細に掬い取るように表現し、その見事な協演に熱い拍手が送られた。

 従来の構造性や論理性からの脱却によって新たな音楽の展望を拓いたドビュッシーが、生涯の最後にソナタという特に構造性と論理性を礎となす絶対音楽形式に至ったことは、西洋音楽史上最も含蓄ある事実のひとつかもしれない。勿論、それは彼の軌跡の延長線上にソナタの様式を拡張し再定義する試みに他ならなかった。多様な室内楽による6曲を構想するも作曲家の死により遺された3曲の最初を飾る《チェロ・ソナタ》は、ドビュッシーの音楽語法が最も凝縮され簡潔に表れた傑作。上野通明のチェロの息を呑む表現力、北村との阿吽の呼吸が生み出す自由自在な緩急の巧みさに、会場は熱狂的な喝采に包まれた。

当夜の作曲家中、唯一20世紀に入って生を享けたメシアンの《黒つぐみ》は、1951年にパリ音楽院のフルート科の試験課題曲として書かれた小品。彼の音楽の代名詞である鳥の声が聞かれ、響きは協和音や全音階の枠外へ飛び出してゆくが、その音世界には紛れもなくドビュッシー流の幻想とラヴェル流の彫琢というエスプリが息づく。思えば、戦後の大家陣 —— ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスら —— はみなメシアンが輩出した。彼らの創作は当時確かに伝統を革新し、今日の耳でも過去との断絶を感じる向きもあろう。だが、近代フランスのエスプリはメシアンを通じて彼らに、さらには世代を超えて現在まで継承されている、という見方もきっと成立する。幅広い時代の音楽を得意とする上野由恵と大宅さおりの演奏は、そうした歴史の俯瞰的視座までも感じさせる鮮やかさで魅了した。

フランス六人組の一員として知られるプーランクは、敬愛したショパンを思わせる叙情、遊び心に富む諧謔、敬虔な宗教性や人間の暗部を直視する深刻さなど、「修道士の悪童」と揶揄されたほど多様な作風で一筋縄ではいかない作曲家。新ウィーン楽派やバルトークと親しく、晩年はブーレーズら若い世代の活動にも真摯に接しつつ、彼自身は己の信条とする創作姿勢を貫いた。世界中で惨劇が起こる20世紀に、彼は人間性を最後まで音楽に求めた作曲家の一人とも思われる。演奏会の最後を飾ったのは、そんなプーランクの歌曲作品。

まず、《ギヨーム・アポリネールの2つの詩》。1930年代のプーランクの音楽は、複雑な響きと移り気な展開の中に人の心の機微を浮かび上がらせる。続いて、6曲からなる歌曲集《偽りの婚約》。決して大仰な身振りを纏わぬ簡素な書法で、狂おしい恋慕、壊れゆく幸福、愛を失う絶望、死への隣り合わせの恐怖と憧れが、さりげなく、ときにありありと描かれる。こうした毒気や暗い情念を伴う心理劇は、《カルメル会修道女の対話》や《人間の声》等のオペラに代表されるプーランクの傑出した表現領域。エーレンスと北村は、その底知れない深さの陰影をぞっとするほどの美しさで余すところなく描き出し、聴く者の胸に迫った。

終演後には、豪華絢爛な音絵巻とも手に汗握るドラマとも異なる何かに接した、不思議な余韻に包まれた。歌われた主題はみな、愛の痛みや命の脆さ、触れる前に消え失せる幻など、この手に掴むことの叶わない美しくも儚いものばかり。「When you hear music after it’s over, it’s gone in the air, you can never capture it again. 空気中に消えた音楽は、二度と捉えることはできない」空気中に消えてゆく宿命の音楽を通して、束の間であれ、儚くも美しい愛や命の尊さを確かとする至芸が、本日のプログラムに通底する「エスプリ」なのでは、と思われた。 (我妻 英)