【2023レポート】③ギター、ソプラノ、ヴィオラが紡ぐ抒情(木下正道氏)

武生国際音楽祭2023レポート第3弾。今回は作曲家の木下正道さんです!

9月6日(水)メインコンサートの「ギター、ソプラノ、ヴィオラが紡ぐ抒情」を聴きました。

まずは、この音楽祭の音楽監督である細川俊夫さんの、ギターソロによる編曲集「日本のうた」の日本初演でした。 我々日本人ならばほぼ誰もが知っている、12のうたが、ギターの演奏技巧を駆使しつつもそれがあまり表に出ずに、音楽そのものをぐっと引き立てることに徹した素晴らしい編曲と、それを真摯に、丁寧に音、音楽として紡いでいくジェイコブ・ケラーマンさん(「今日の演奏会でわたしだけがこれらの曲を知らない」と仰られていたようですが)のギター演奏は、とても感動的でした。 細川さんはお話で「(使い古された)骨董品を磨くように」と仰っておられましたが、その試みは十分に成功し、懐かしくも新しい音の世界が生まれました。

そして盛大な拍手に応えて、アンコールとして、細川さん編曲の「五木の子守唄」が、ソプラノのイルゼ・エーレンスさんと、ジェイコブさんのギターで演奏されました。旋律と伴奏は繰り返すたびに少しづつ変化していき、夕焼けの中ゆっくりと日が沈むような(日本的)風情を、イルゼさんとジェイコブさんは全く的確に表現されていました。

転換を挟んで、次はリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」が、イルゼさんのソプラノと北村朋幹さんのピアノで演奏されました。R.シュトラウスの「4つの最後の歌」は、作曲者最晩年の作品ですが、彼らしい色彩感あふれる音楽の中に、そこはかとなく漂う寂寥感や、人生の肯定と死の影がないまぜになった淡い光が立ち込めています。また晩年の巨匠らしい簡潔さもあります。イルゼさんは、満ち引きを繰り返す潮のように、うねりと輝きのある声の様々な表情を巧みに操り、広がりある歌を歌っていきます。北村さんの一切音に濁りのないピアノは、品位を保ちつつ歌と対等に対峙して、R.シュトラウスの書いた音符の意味を描き出していきます。 そして、終曲のまさに最後に、ピアノだけ残ってどこまでも沈黙に向かって進んでいく(もちろんそこには歌の残り香があります)ところなど、まさに彼岸の世界を垣間見るようでした。

休憩の後は、ショスタコーヴィチのこれまた最晩年の作品「ヴィオラソナタ Op.147」が、ルオシャ・ファンさんのヴィオラと、北村さんのピアノで演奏されました。 この曲には、ベートーベンの「月光」を始めとする多くの引用があります。それを色々推測するのも楽しい聴き方なのですが、今回の演奏ではそういうことよりも、まず書かれた音を演奏として如何に彫琢するか、その究極的な姿を見たように思いました。 北村さんは「虚無」を表現できる稀有な音楽家の一人だと思います。ここでの「虚無」とは、単にからっぽ、という意味ではなく、喜怒哀楽を始めとする様々な感情や、禍々しいもの、恐怖を覚えるもの、また至福の世界を見せるもの、の源泉、原型となるような、何か、です。ショスタコービッチの晩年の音楽は、切り詰めたギリギリの音の動きによって、そういった「虚無」の世界に近づいていると思うときがあります。北村さんはそれを自分の音として丁寧になぞり、そこで表情豊かで時に厳しい造形を持つルオシャさんのヴィオラが自在に歌います。極めて純粋な音楽の姿を引き出したこの演奏は、まさに画期的なものだと思いました。